苦しくて息が詰まる。胸が張り裂けてしまいそう。 身を焦がすほど恋こがれてる。四六時中、ただ一人を想う。 なんて、あまりにも陳腐でバカらしいセリフだけど、それが今の現実。 「はぁ‥」 ギィ‥と音を立てるようなボロいドアを閉めて、一番最初にこぼれたのはため息。 通って3年目だが、ただの一度も入ったことのねぇ準備室。 ろくに掃除されてないような室内は埃っぽくて暑くて、とても居られるような場所じゃなかったが、今はそんなことを気にしていられなかった。 一限目が始まるまであと少し。 いつもなら3Dの教室で、クマや南たちと笑い合っているところなのだが、とても教室へ戻る気になれない。 おそらく、朝から無駄に元気いっぱいの担任は、まだ教室で一緒に騒いでいるだろうから。 何があったか?と聞かれれば、大したことはない。 「ヤンクミ、ちょっと髪いじってみれば?」 誰が言ったのか知らないし、なんでそんな話題になったのかも聞いていない。 不意に聞こえてきた言葉に、俺の頭はすっかりそっちへいってしまった。 俺も触ったことのねぇ彼女の髪に、他の誰かが触れるなんて! 仲間とか関係なく、誰にも譲りたくない小さな怒りみたいなものが沸いて、作られた囲いを押し退けた俺は手を上げていた。 「ヤンクミ、俺がやってやるよ」 う〜んう〜んと唸っていたヤンクミの顔が、俺のほうを向いた。 そこにあったのは、期待に満ちた嬉しそうな顔。 「内山なら器用そうだな。よし、任せるぞ〜」 ヤンクミの期待に応えたくて、自分の髪以上に気合い入れてやったせいか、頭ん中で描いていたものよりずっとうまく出来た。 「サンキューな、内山」 その出来に喜んで、ヤンクミは笑った。 たったそれだけ。 そう、言葉にしてみればたったそれだけのこと。 「はぁ‥」 曇りガラスの入った木製の棚に寄りかかって、二つ目のため息と共に抱えるのは頭。 今日はまだ慎が来てなくてよかったなと、心底思った。 仲間の中でずば抜けて勘が鋭い彼を、うまく誤魔化せる自信なんかない。 別に知られて困るってわけじゃない。 慎はペラペラと喋るような奴じゃねぇし。 もしかしたら、慎のことだから俺の気持ちなんてとっくに知ってるのかもしれねぇ。 口には出さねぇけど、俺にも慎の気持ちがわかるから。 同じことに喜びを感じ、同じことに怒りを感じ、同じことに愛しさを感じる。 同じ想いを抱えているなら当たり前の話だ。 奪いたいわけじゃねぇ。けど、どうしても譲れねぇ。 ホント面倒だと思う。なんで教師、しかも担任なんて面倒としか言い様のねぇ立場の女を、マジで大事だと思える仲間と取り合わなきゃなんねぇのか。 「もし困ったことがあったら、いつでも私を頼れよ。必ず助けてやるからな」 握った拳にぎゅっと力が篭った。 瞼に浮かぶヤンクミの笑顔が痛くて仕方ない。 本当は、助けてほしい。息も詰まりそうなこの苦しみから救ってほしい。 でも、助けを求めちゃいけねぇこと、ちゃんとわかってんだ。殺せないこの想いを生かす方法が一つしかないことも。 ただ耐えるしかなくて、ただ抑えるしかなくて。 伝えたら、壊れる。 今出来ることが出来なくなるなんて、そんなの絶対耐えられねぇから。 この痛みに、この熱に耐えていれば、まだ側にいられる。 ただの生徒の一人だとしても、男だと意識してもらえなかったとしても、まだヤンクミの側に。 「内山ぁ?いるかぁ?」 入り口からかけられた少し遠慮がちな声に、俺は文字通り飛び上がるほど驚いた。 聞き間違えるわけない、男子高には数少ない高い声。今まさに考えていた相手。 見れば、廊下と繋がっているドアからちょこんと顔を出している。 「お、いたな〜」 ドアを閉めて、ヤンクミは中に入ってきた。歩く度に、俺が教室で結った髪がサラサラと揺れている。 「ヤンクミ、なんで此処に?」 動揺をひた隠しにして、とりあえず聞いてみた。 此処はろくに使われてなさそうな物置みたいな準備室。 誰も来ないだろうって思ったから、わざわざ屋上じゃなくてこっちを選んだのに。 「いや、なんとなくお前が此処にいる気がしてな〜」 私の勘も大したもんだとヤンクミは腰に手を当てて笑った。 なんとなく。ただの勘。 くだらねぇと思いつつ、そんなたった一言に、こんなにも体の熱が上がる。 表情を隠そうと、口もとに片手を当てたが意味を成してないかもしれねぇ。 抑えられない。 困ったと思う反面、笑っちゃうくらい嬉しいと思う。 ただの勘だとしても、ヤンクミが此処に来てくれて。 「で、お前は此処で何してんだ?サボり‥、なら屋上に行くよな?」 思ってたよりヤンクミの声が近くで聞こえて、ハッとした。 いつの間にかヤンクミが側まできてたらしい。 間近にあった顔に驚いて思わず後ずさったら、ヤンクミに首を傾げられた。 「内山?」 「あ‥」 ヤベ‥ 今のは明らかに不自然だった。そう思っても後の祭りってヤツ。 不思議そうな表情のヤンクミに、まさか本当のことを答えられるわけがなく、誤魔化すしか俺に手段はない。 「いや、べつになんでもねぇよ」 少し顔をそらして、ヤンクミから両脇にそびえ立つの棚へと視線を移した。 熱かった。苦しかった。 ヤンクミに心臓の音が聞こえたりしてないか、顔が赤くなったりしてないか。 そんなことばかりに気がいっちまって、止まった頭は適当な言い訳すら浮かべちゃくれない。 「なんでもねぇんだ」 自分自身に言い聞かすように、俺はもう一度繰り返した。 上がる鼓動を抑えるために、とにかくヤンクミと距離を取ろうと、俺はヤンクミに背を向けた。 埃っぽい段ボールの塔を避けながら、部屋の一番奥へと足を進める。 後をついてきてねぇみてぇだから、今の俺とヤンクミの距離はだいたい2メートル弱ってとこだろう。 手を伸ばしても届かない距離は、短いようで長い。 自分から離れたってのに、寂しさと安著が混じって複雑な気持ちになる。 思わずため息がこぼれそうになって、慌てて呑み込んだ。 背中に視線を感じてる。ここでため息なんかこぼしたら心配されそうだ。 そうだ。 なにか話題を出して、そっちに引き付けよう。 「しっかし、まるで物置みてぇだな。なんだこりゃ」 いろいろ挟んである棚のファイルを見上げて、その中からはみ出していた黄ばんだ紙を引っ張り出してみた。 「お、テストじゃ〜ん」 広げて見てから、わざとらしく声に出して笑った。 体半分だけふりかえって、古びたテスト用紙の右上を指差す。 「見ろよ、ヤンクミ。こいつ3点だぜ。ひっでぇよな〜って、俺も他人のこと言えねぇけどさ。なんか卒業した後、知らねぇヤツにこんな風に点数見られんのってイヤだよな〜」 俺は普段と変わんねぇ感じで言ったつもりだったけど、それが余計にマズかったらしい。 ヤンクミはまた首を傾げ、俺のほうへと近づいてきた。 「内山、どうしたんだ?お前、なんか変だぞ?」 「べつに変じゃねぇよ。あ、まだあるぜ」 誤魔化して違う用紙を見せようとしたが、ヤンクミは聞いてくれなかった。 再び俺たちの間が縮む。 手どころか呟きすら届く距離まで。 顔を見られなくてうつ向いた俺の視界にヤンクミの足が映ってる。 頭の端っこに痛みに似たものが走って、堪らず片手で押さえた。 まるで二日酔いのような頭。 ガンガンと響きわたる音で、自分の中の誰かが言っている。 駄目だ、と。 今ヤンクミにこれ以上近づいていては駄目だ。 「内山」 呼ばれてとっさに身を引いたが、逃げることは許されなかった。 今の距離を知らしめるように、掴まれた腕が熱い。 「おい、内山」 「だから、なんでもねぇって。もう授業始まるよな?俺、教室に戻るから、放せよ」 狭い誰も来ない部屋に好きな女と二人きり。 男なら泣いて喜ぶこのシチュエーションは、今の俺に苦痛しか与えない。 過信じゃなく、この関係は難しくて厄介で、俺には壊れたら直せる自信なんて欠片もない。 臆病者だと言われてもいい。 誰かにとられるのはもちろん嫌だけど、この関係は変わりたいと思うけど、でも、この距離はとても心地好くて幸せで、壊したくないんだ。 守りてぇんだよ。 でもわかる。 たぶん、今歩いているのは細い細い糸の上だ。 俺は開きかけた扉の前に立っていて、もし少しでも背中を押されたら、きっと走り出して止まらねぇ。 なにも言えなくて、下を向いたまま心から懇願した。 頼むからこれ以上来るな。こっちに来るな! 「内山?」 プツッ。 理性の糸なんてものがあるなら、そんな音がしただろう。 触れられたのは頬。掴まれたのは心。 捕えたのはその背中。 落ちていく形ある物たちには目もくれずに、背中に走った衝撃も全然気にならなかった。 頭が真っ白になっていた。 ただ熱と柔らかさを求めて、その小さな体に触れたくて、小さな赤さに食い付いた。 「うちッ‥ん‥」 こぼれた言葉は耳まで届かなくて、生まれた抵抗はなんの障害にもならない。 何度も何度も角度を変えて、触れた柔らかさを貪って、あまりの熱さにクラクラする。 いつの間にか生まれて、育って育ちすぎて溢れた想い。 その名は… 「好き‥」 言葉にしてしまえば、たった一言。 こんなにも重くて苦しいものなのに、声にすればたった一言で表せてしまう。 「ヤンクミが好きだ」 熱イ。熱イよ。 燃エテしまう。溶ケテしまう。 もう十分ナノニ、でも、まだ足リナイ。 更なる奥の熱さを求めて手を掛けた瞬間、高い音と共に頬に電気が走った。 夢から一気に現実へと引きずり戻されたような感じ。 頭を覆い尽していた白が、一瞬にして真っ黒へと染まる。 「あ‥」 自分が何をしてしまったのか。理解した途端、体が震えた。 壊れる。壊れてしまう。 大切に守ってきたものが。一番守りたかったものが。 そう思ったら力が抜けて、ズルズルとその場に座り込んでしまった。 「内山‥?」 戸惑いに満ちたヤンクミの声が、頭の上から降ってくる。 ヤンクミが動こうとするのを気配で感じて、駄々をこねる子どものようにその足にしがみ付いた。 「嫌だ!」 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! お願いだから、今だけでいいから此処にいて。いなくならないで。 「ヤンクミが篠原って奴のこと好きなのは知ってる」 わかってても諦めなんてつかない。 それどころか想いは募る一方で。変わってほしいと思いながら、やっぱり変わってほしくなくて。 だから、なにも伝えられなかった。この想いの名前さえ。 「好きなんだ‥」 見てるだけで幸せ。そばにいるだけで楽しい。 その想いだけで毎日過ごしていけてたのは、いつだった? 日に日に増していく想いは大きく重くのしかかり、小さく胸へ痛みを落としていく。 もう今は、苦しくて辛くって。 好きの一言じゃ表せないくらいこの想いは深くなりすぎて。 「俺、もうどうしたらいいかわかんねぇよ‥」 知らずに、涙がこぼれていた。 「ごめんな、内山」 暫くの沈黙の後、温かい手とともにヤンクミの声が落ちてきた。 俺が手を離すと、ヤンクミはそのまま体を屈ませた。目線は俺とほぼ同じくらいの位置。 「ヤンクミ?」 「お前がこんなに苦しんでるのに気づけなかった。ごめんな」 「ヤンクミが、謝ることじゃねぇよ」 俺より痛そうな表情をしてヤンクミが謝る。その表情をみていられなくてうつ向いた。 謝ってほしいわけじゃない。謝らせたいわけじゃない。 そんな表情、見たくない。 「内山」 かかった声に再び顔を上げた。 無言の問いにヤンクミは少しも視線を外さず、まっすぐ俺を見つめてきた。 「生徒の一人じゃ、足りないんだな?」 ヤンクミの言葉に静かに頷いた。 「わかった。少し時間をくれないか?お前のこと、お前の想い、真剣に考えてみるから」 これじゃ続いちゃうじゃん‥それが書いて思った一番のこと。 2004/06/19 |