「・・・いつものことか」
小さく、誰にも聞こえぬように呟いた自分が馬鹿馬鹿しく感じた。
手入れの行き届いた中庭。千紫万紅の咲き乱れるその様は、飽きることがなく、私も女だなと改めて感じた。
通りを曲がり、張遼殿が歩いてくるのが見えた。
「おはようございます、張遼殿」
「おはようございます。殿、このような場所でどうかされましたか?」
「いえ、べつに。張遼殿はこれから調練ですか?」
「えぇ、よかったら殿もご一緒にいかがです?」
「遠慮しておきます。私はまだ政務が残っていますから。詰め過ぎるのも良くないかと思いまして少し気晴らしに出てきたのです」
下ヒの戦いが終わり、魏軍に降って幾日か過ぎた。
呂布殿が処刑され、張遼殿や私を始め、何人かの武将が捕虜から将として登用された。
おそらく危うく見えたのだろう。夏侯惇殿や徐晃殿が気にかけてくれ、話しかけてくれる。
降った当初ほど話さなくなったが、張遼殿は慣れたのだろうか。
この違和感に。
「」
「おや、夏侯惇殿。政務は終わられたのですか?」
「あぁ、やっとな」
大きな息をついて、肩をまわしている。
どうやら殿の仕事を被ったらしい。文官たちが慌しく駆けていたのでおそらく殿が抜け出したのだろう。
どの陣営でも同じ。陳宮殿のように腹心の部下は苦労が耐えないものだ。
「は?もう終わったのか?」
「いいえ」
「いいのか?こんなところで何をしているんだ?」
「呆けてみたくなりまして。じつは放り出してきてしまいました」
「・・・司馬懿がすごい顔をしていたのはそのせいか」
納得したと言わんばかりに夏侯惇殿はうなずいた。
どうやら夏侯惇殿は既に司馬懿殿に会われたらしい。
「私のような新人武将にあのような多くの書簡を相手するなど・・・無理なことなんですよ」
そもそも私は副将なのだ。しかも降って日もろくにあけてない。
なのに、司馬懿殿は何を考えておられるのか。
「任せた司馬懿殿が悪いです」
「そういうことは司馬懿に見つかる前に言うべきだったぞ」
ぞくりと殺気が背中に走り、ふりかえった。
「おや、司馬懿殿。ますます顔色が悪くなって。いかがされました?」
「理由は殿が一番ご存知かと思うが?」
口元に浮かべられた笑顔が表現できないほどの恐怖を伝えてくれる。
当たり前だろう。この軍師の笑顔には国の君主すら怯えるという話だから。
「申し訳ありません。すぐに済ませますので、もう暫くお時間頂戴します。夏侯惇殿、失礼致します」
謝罪とともに素直に頭を下げ、これ以上怒られる前に早々とその場を辞してきた。
戻った室内には誰もいない。私には文官という者がいないから。司馬懿殿に文官をつけるよう言われたが、必要ないと答えた。
だって、この空間に、他の誰かを入れることは耐えられない。
「・・・呂布殿・・・・」
部屋の窓のそば。
呂布殿が立っていた。静かに、何も言わず、ただ其処にいる。
影はない。気配もない。 当たり前だ。これは私の作り出した幻。
もし仮に呂布殿が黄泉から会いに来られるならば、私ではなく張遼殿のところだろう。
どう間違っても此処に呂布殿が居られるわけがない。
あの方にとって私は、軍に多くいた武将の一人でしかなく、戦場で駈ける以外にあの方の姿を見ることも少なかった。
呂軍にいた頃、話したことは数えられる程度だったのではないだろうか。
だが、そんなことは関係なかった。
たとえ言葉は交わさなくても、目に留めていただけなくても、私にとってあの方は光だった。
あの方の武に近づきたくて、女であることを捨てる覚悟で戦場に身を投じた。あの方に添いたくて、死すら越えて誰よりもあの方の傍にいきたかったのに。
「お前は捕虜だ。死すらお前のものではない」
曹操‥いや、殿の目に止まったことが幸だったのか、捕らえられれば権利はないと、私は死ぬことすら許されなかった。
そのことを憎んではいない。怨んでもいない。
呂軍にいた頃より仕事は増えたが、みんなよくしてくれる。
今のこの場所はとても居心地がいい。悲しすぎるくらいに、居心地がいいのだ。
感謝している。
本当に感謝している。
だから、忘れなければいけない、のだ。
私は魏軍の将。
殿を討ち果たそうとは思っていない。殿を守りたい。
そう思う、そんな自分が許せなかった。許してはいけないと思う。
視界が揺れる。
それでも、そこにいる。
「・・・呂布殿・・・・」
何もいわず、ただ其処にいる。私を静かに見ている。
私を見ないでください。
でも、見ていてほしい。
あなたを想っています。あなたを想っています。
でも、苦しくて。とても苦しくて。
引き裂かれてしまいたかった。
これは・・・誰夢っていうんだろう。
2005/05/18